1854年12月24日。
現在の和歌山県広川町にあたる紀州藩広村を、
安政南海地震による大津波が襲った。
そのとき、暗闇の中で逃げ遅れていた人々を高台へ導くため、
稲むらに火を放った人物がいた。
その人物が、濱口梧陵(はまぐち ごりょう)である。
この実話をもとに後世に作られた物語が、
「稲むらの火」
だ。
内閣府によれば、現在の11月5日の「津波防災の日」は、
この安政南海地震での濱口梧陵の逸話にちなんで定められている。
さらに11月5日は国連総会によって「世界津波の日」にも制定された。
「稲むらの火」は、単なる昔話ではない。
そこには、
■異変を知る。
■次の災害に備える。
■危険を感じたら、すぐ行動する。
という、現代の防災にも通じる教訓が詰まっている。
まさに「防災ラボる」が掲げる、
知備即行(ちびそっこう)――知る・備える・すぐ行動する
を約170年前に実践したような出来事なのである。
「稲むら」とは何?
そもそも「稲むら」という言葉を聞いたことがない人も多いだろう。
内閣府では、
収穫を終えた稲わらを屋外に積み重ねたもの
と説明している。
1854年当時は、
現在のようなスマートフォンも防災無線も緊急速報メールもない。
夜の暗闇で危険を知らせ、
人々を安全な場所へ導かなければならなかった。
そこで重要な役割を果たしたのが、
「火」
だった。
1854年、安政南海地震が発生
安政元年11月5日、
現在の暦では1854年12月24日、安政南海地震が発生した。
その津波が、現在の和歌山県広川町にあたる広村を襲った。
気象庁が紹介している当時の実況図では、
高さ約5mの大津波が波除石垣を越え、
村や背後の田畑へ流れ込んだ様子が記録されている。
特に広川や江上川に沿って津波が激しく侵入した。
現在でも津波被害で問題になる、
「川を津波が遡上する」
という現象が、この時代にも起きていたことが分かる。
濱口梧陵は何をしたのか
地震のあと、濱口梧陵は津波から逃げ遅れた人々を助けようとした。
そこで行ったのが、
稲むらに火をつける
という行動だった。
燃え上がる火を目印にして、
暗闇の中にいた人々を高台にある広八幡神社へ導いたのである。
現代なら、
緊急地震速報、防災無線、スマートフォン、テレビ、ラジオ、
SNSなど、危険を知らせる手段はいくつもある。
しかし当時、そのようなものは存在しない。
だから梧陵は、
その場にあるものを使って、人々が行動できる目印を作った。
ここに一つ目の大きな教訓がある。
教訓①「情報を待つ」だけではなく、自分で判断する
津波から命を守るためには、情報収集はもちろん重要だ。
しかし、強い揺れを感じた沿岸部などでは、
津波警報を確認してから初めて避難を考えるのではなく、
津波の危険を認識して速やかに安全な場所へ避難することが重要になる。
「誰かが逃げ始めたら逃げる」
「防災無線が鳴ったら考える」
ではなく、
自分自身が危険を判断して行動する。
これは「津波てんでんこ」にも通じる考え方だ。
「稲むらの火」は完全な実話ではない
ここは今回の記事で、ぜひ伝えておきたいポイントだ。
現在広く知られている「稲むらの火」は、
実際の出来事をそのまま記録した文章ではない。
実話をもとに作られた文学作品である。
1896年、明治三陸地震津波で
大きな被害が発生したことを知ったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、
濱口梧陵の逸話をもとに「A Living God」を書いた。
その後、中井常蔵が子どもにも分かりやすい形に再話したものが
「稲むらの火」である。
この作品は1937年から1947年まで国語教材として使われた。
実話と物語には、こんな違いがある
気象庁は実話と「A Living God」の違いも紹介している。
例えば、
| 項目 | 実際の濱口梧陵 | 物語 |
|---|---|---|
| 名前 | 濱口儀兵衛(梧陵) | 濱口五兵衛 |
| 年齢 | 35歳 | 老人 |
| 住居 | 低地の集落 | 高台 |
| 宵祭り | なし | あり |
| 地震 | 激しい揺れ | 長くゆっくりした揺れ |
| 火をつけた目的 | 漂流者に安全な場所を知らせる | 村人へ津波襲来を知らせる |
気象庁が掲載する広川町資料による比較である。
つまり、
「物語としての稲むらの火」
と
「1854年に実際に起きたこと」
は分けて理解する
必要がある。
ただし、物語になったことで
津波避難の教訓が多くの人へ伝わったことも重要だ。
「津波の前には必ず潮が引く」は間違い
「稲むらの火」を読む際には、もう一つ注意したいことがある。
津波が来る前には、必ず海水が引くわけではない。
津波は最初に「引き波」が来る場合もあれば、
「押し波」から始まる場合もある。
したがって、
「海が引いていないから津波は来ない」
と判断してはいけない。
物語を防災教材として読むときは、
こうした現代の津波知識と一緒に理解することが大切だ。
濱口梧陵の防災は「避難」だけでは終わらなかった
「稲むらの火」というと、
火をつけて人々を助けた人物
という部分ばかりが注目される。
しかし、防災ラボるとして注目したいのはその後だ。
梧陵は、
「また津波が来るかもしれない」
と考えた。
そして次の津波へ備えるため、私財を投じて広村堤防を築いた。
内閣府によれば、堤防は高さ約5m、長さ約600m。
工事は約4年間にわたり、被災した村人を工事に雇うことで、
復興や村民の離散防止にもつなげたとされる。
ここが非常に重要だ。
災害が終わったから、防災も終わり。
ではなかったのである。
92年後、再び南海地震が発生した
1854年の安政南海地震から92年後。
1946年12月21日、昭和南海地震が発生した。
そして再び、広村を津波が襲った。
気象庁資料では約30分後に高さ4~5mの津波が襲来したとされる。
そのとき、梧陵らが築いた広村堤防が、
居住地区の大部分を津波から守ったとされている。
ただし、被害が完全になくなったわけではない。
堤防外側などでは被害が発生し、広村では死者も出た。
だから、
「堤防があれば絶対安全」
という教訓ではない。
むしろ、
構造物による備え+避難
の両方が必要だと考えるべきだろう。
「稲むらの火」から学べる3つの防災
濱口梧陵の行動を整理すると、非常に興味深い。
①危険を察知する
地震が起きた。
津波が来るかもしれない。
まず危険を理解する。
②すぐ避難につなげる
稲むらへ火をつけ、人々を高台へ導いた。
その場で命を守る行動である。
③次の災害に備える
津波が去ったあと、堤防を築いた。
未来の命を守る行動である。
防災とは、非常食を買うことだけではない。
災害前・災害発生時・災害後のすべてに行動がある。
11月5日は「津波防災の日」
日本では11月5日が「津波防災の日」と定められている。
その由来が「稲むらの火」だ。
さらに2015年12月、
国連総会は11月5日を
「世界津波の日(World Tsunami Awareness Day)」
とすることを決定した。
広川町の「稲むらの火の館」でも、
この由来を紹介している。
約170年前の日本の小さな村で起きた出来事が、
現在では世界の津波防災を考える日につながっている。
現代の私たちなら何をする?
私たちは稲むらに火をつける必要はない。
現代にはもっと多くの防災情報がある。
だからこそ、平常時に、
■自宅が津波浸水想定区域か確認する。
■避難場所を確認する。
■避難場所まで実際に歩いてみる。
■夜間でも避難できるか確認する。
■家族が別々の場所にいるときの避難先を決める。
■強い揺れを感じたときの行動を家族で決める。
こうした準備をしておきたい。
そして沿岸部で強い揺れなどを感じたときには、
危険を過小評価せず、必要な避難行動につなげる。
「防災ラボる」の知備即行そのもの
「稲むらの火」を防災ラボるの理念に当てはめると、とても分かりやすい。
①知る。
過去に津波が起きたことを知る。自分の地域の危険を知る。
津波の特徴を知る。
②備える。
避難場所を決める。避難経路を歩く。
家族で避難方法を決める。
地域として防災設備を整える。
③即行。
地震が発生したとき、
危険を感じたら命を守る行動へ移す。
知る → 備える → すぐ行動する。
知備即行。
「稲むらの火」が現代まで語り継がれている理由は、ここにあるのではないだろうか。
まとめ|「稲むらの火」は、火をつけた英雄物語だけではない
1854年の安政南海地震。
濱口梧陵は稲むらへ火を放ち、
暗闇の中で逃げ遅れた人々を高台へ導いた。
しかし、本当に注目したいのは、その先である。
①災害を知った。
②人を避難させた。
③次の災害に備えて堤防を築いた。
そして、その教訓が次の世代へ伝えられた。
92年後の昭和南海地震では、その広村堤防が居住地区の大部分を津波から守った。
防災で大切なのは、
「昔こんな災害がありました」と知ることだけではない。
過去の災害から学び、
自分ならどう備えるか。
そして、
災害が起きたらどう行動するか。
そこまで考えて初めて、災害の教訓が現在に生きる。
約170年前に灯された「稲むらの火」。
その火を、現代では防災の知識と行動として受け継いでいく。
それが、過去の災害を未来の命につなげることなのだと思う。

